連城の璧 れんじょうのたま RENJHO NO TAMA
江戸系 中生 薄い藤紫の六英花。花径はおよそ14cm程度の中輪。
草丈は低く50cm程度。性質は丈夫で繁殖も良い。しかし、葉の色がやや黄色っぽい
ので、花が浮き立たない。
江戸花菖蒲の古花の中でも、松平菖翁が作出した、「菖翁花」と呼ばれている品種の一つ。
菖翁花の中では一番丈夫で繁殖も良いので、普及しており、安価に販売されていた時代もも
あるが、その歴史的な価値としては、たいへん貴重な品種である。
江戸末期の弘化、嘉永年代頃の作。
よく、「連城の壁」と読んだり、種苗会社からの注文書などにも、よくこう書いて来る人がいるが、
カベではなく「璧」である。この名前は、中国の古事からとったもので、多くの城と交換してくれと
言われても惜しいほど素晴らしい玉(ぎょく)というほどの意味で、つまりそれほど素晴らしい花な
のだという意味である。
菖翁という人は、京都では禁裏付などの仕事もしていたためか、博学で上流階級の人物であった。
彼の作花は300品種に迫るが、和歌や能楽、中国の古事から取った名称も多く、そういった教養が
ないと何を意図しているのか理解が難しい。
花菖蒲は江戸時代、端午の節句の祭りの花としての性格を持っていた。堀切では、さまざまな
切花を江戸向けに生産出荷していたが、花菖蒲も端午の節句の祭りの花として生産しており、
それが花菖蒲園に発展していったのが、堀切の花菖蒲園である。
しかし菖翁は、節句の祭りの花という花菖蒲の性格を追求せず、たとえ節句には間に合わなくても、花そのものの
美を追求し、花菖蒲を純粋な芸術にまで高めた。また「花菖培養録」などの著作を書き表すことで文化性を持たせ、
その業績を熊本に伝えることで、熊本花菖蒲(肥後系)の始祖ともなり、彼自身の思想を後世に残した。それが菖
翁が花菖蒲中興の祖と呼ばれる所以である。
菖翁昔語り その6
菖翁の花菖蒲栽培は一つ一つ命名してはいなかった。ただ番号を付けて栽培してあった。それで毎年
開花の時になれば臨時に命名して観賞されたものである。たとえば8種の花を選出して、近江八景に
ちなんで命名し、白花を「比良の暮雪」、絞りを「唐崎の雨夜」というふうに観賞し、翌年は前年の比良の
暮雪が「加茂川」と命名されるといったありさまで一定していなかった。
しかし、菖翁が熊本に苗を送るとき、名前が無くては困るだろうからと言って、この時はじめて各種に命名
して送られたから、それ以来、花菖蒲に固有の名称があるようになった。
菖翁は、一つの花に2つの名前を与えたこともあった。すなわち「昇 竜」という花は咲き始めは昇
竜で、咲き
尽くしたところで「古金襴」と改名した。また「漣」という花は、咲き始めは玉状になるから「連城の壁」と云い、
開けば「漣」と称えられた。(「肥後藩の物産家と園芸家」熊本 上妻文庫より)