千代の春 ちよのはる CHIYO NO HARU
江戸系 晩生 白地に薄紫の絣が少々入り、鉾は赤紫に染まる深咲きの二色花。
花径はおよそ18cm程度の中大輪。草丈は100cmを越える。性質、繁殖ともに普通。
平尾秀一氏が千葉県市川市の牧野善作氏の圃場を借りて1970年頃作出した、一連の平尾牧野系の
品種の一つ。白と紅のコントラストが特にはっきりしており、花菖蒲園でもとても目立ち、まばゆいばかりに
輝き、たいへん人気の高い花で、全国的によく普及している品種である。平尾先生の代表的な傑作の一つ
である。
平尾先生の花菖蒲改良 平尾先生が花菖蒲を改良した期間には、大きく分けて2つの山がある。第1時期は、「舞扇」、「新朝日の雪」などを作出した、昭和20年代後半から30年代初め頃にかけての肥後系花菖蒲の育種。そして、第2期は、昭和44年から46年頃に千葉県市原市の牧野善作氏の圃場を借りて行った江戸花菖蒲の育種であった。しかし、なぜ平尾先生は、肥後系の育種から江戸系の育種に転向されたのだろうか。 疑問に思ったので当園主の加茂に聞いてみたので、ご紹介する。 「それは難しい事ではないよ。」と言って話してくれたが、奥の深い理由だった。 肥後花菖蒲はもともと屋外で花を観賞するものではない。もともと室内観賞をめざして明治の頃から改良されてきた系統で、そのため、豪華だがぼってりして花色に純粋な冴えが感じられない。しかし、室内の薄暗い納戸の奥に置き、夜を通して花を観賞すると、その色の冴えの無さも気にならないのである。熊本の古花に「石橋」という品種があり、屋外では何とも冴えない小豆色だが、室内でゆっくり咲かせ、開花3日目の晩に観賞するとき、その花色は淡く上品になり、すばらしく気品高く見えるといった具合に、室内で咲かせてこその花なのである。言い方を変えれば、肥後花菖蒲の古い花は、花色の冴えに重点を置いた改良はされていないのである。このように、もともと「納戸花」の肥後系を、屋外の日中の光で色彩の優劣を云々しても始まらないのである。 しかし、花菖蒲は、その屋外の日中の光で観賞することが一般なのである。先生は、肥後系の色彩の冴えの無さが気になっていたと同時に、その肥後系を多くの場合、屋外で観賞していることに矛盾に感じておられたのだろう。 さて、昭和の30年代後半、アメリカの花菖蒲を見に米国の花菖蒲改良の第一人者であるW.ペーン氏を先生は訪ねた。そしてそこで見たものは、江戸花菖蒲から彼らが改良した、「ザ・グレートモガール」とか、「エンチャンティッド・レーク」、「スカイアンドウォーター」、「イマキュリーと・グリッター」、「シルバーサーフ」など、純粋な色彩を持ち鮮やかで明るい花々であった。これらの花々を見て、先生は驚き、ショックを感じられたのではないだろうか。1964年の平尾先生の通販カタログを見ると、多くの自作肥後系の前に、新規に米国から導入した数品種の名前が記されている。また、ペーン翁とその頃何度も文通を交わされているが、先生は庭園用の品種群である江戸花菖蒲の良さを、米国で作出された花菖蒲を見ることによって再認識したと思われる。その明るい色彩は、肥後花菖蒲には感じられないものだった。このペーン氏との出会いが、平尾先生の育種方向を転換させたと言って良いだろう。 また、江戸花菖蒲についての表現を、「粋な」とか、「小股の切れ上がった町娘のような。」とか、その当時1973年頃のガーデンライフでの江戸花菖蒲特集の中でも使っているが、これは、江戸花菖蒲の良さを知らないと使えない表現である。 肥後系の花色の冴えのなさが気に入らないだけなら、色彩の冴えた肥後系を作出せばよい。しかし、それが江戸系の改良の方向に向かったということは、やはり江戸系が美しいと感じられたからではないだろうか。 花菖蒲を好きになる場合、多くの人は肥後系の豪華な美しさに驚きそこから花菖蒲が好きになる。しかし、長いこと花を見るうち、視覚的な豪華さには限りがあることに気付く。そして花の品格を重視するようになる。そして、何が花の品を良くしているのだろうかと探ると、それは日本的な「間」の美しさであることに気付く。そうした眼で江戸花菖蒲のそれも古い品種を改めて見てみると、その「間の美」がみごとに表現されていることに気付くのである。そうなると、今まで見向きもしなかった江戸花菖蒲が、がぜん面白くなってくる。 先生の肥後系は、広島の精興園の品種と、横浜の西田衆芳園の品種とを交配させたものだと先生は言われたというが、肥後系の伝統的な花形を非常に重視しておられた。「白玉楼」や「澄 心」などに見られる品格の高さは、その表れであり、このような感性で江戸花菖蒲を見るとき、それが下品で劣った花に見えるはずはないと思う。 また、先生はよく、「花の色は一言で言い表せれるものでなければならない。」と話しておられた。明るく鮮明なものでなければならないと。にごりがあっては駄目だと。そして、江戸花菖蒲の改良に取り組み、作出されたのが「千代の春」とか、「清少納言」、「栄 紫」など花菖蒲園向きの明るい花だった。 また鮮明な青色を追求され、江戸古花の「浅妻舟」から「伊豆の海」を、そして「青岳城」、「朝戸開」などへと続く、純粋なブルーの色彩を追求されたこともあった。「朝戸開」という名前は、平尾先生と当園主の加茂が、千葉県の牧野善作氏の所に泊まり、朝一番に戸を開けて花菖蒲の圃場を見たら、一輪の花がまさに咲き始めており、その鮮明なブルーがパッと眼に飛び込んで来たからだという。その花に「朝戸開」と付け、その類似花に「新朝戸開」と命名した。 そんな平尾先生の江戸花菖蒲は、作出された当時はまだ肥後系全盛の時代だったので、あまり評価されなかったが、当園で大量に植栽し、増殖して全国へ普及させたこともあって、次第にその価値が認められるようになり、現代ではそれがスタンダードになった感がある。 この平尾先生の改良と正反対なのが、名古屋の光田先生の改良だった。氏は、純粋な肥後系の伝統を守り、独自の美意識で豪華絢爛な方向へ改良を続けた。その結果花菖蒲はさらに華麗になり、色彩の幅も広がり、光田氏の改良の成果は多くの人々から賞賛され認められた。しかし、平尾先生の目にはその方向は限界のある育種であり、「花色がきたない。色をまぜてばかりいる。袋小路のようなことをいつまでもやって・・。」と、かなり当時の光田先生の花に批判的だった。事実光田先生のその頃(昭和40〜50年頃)の花は花色が鮮明でないものが多く、ピンクも灰藤色がかったものが多かった。花形もくどく、花色も何だかわからない。平尾先生の目から見れば見るに耐えないような花であったことも何となく頷ける。 個人の栽培家の眼を楽しませるのなら、光田先生の育種方向の方が良かったと私は思う。もっと性質が強ければの話だが・・。しかし、花菖蒲は絶対的多数の人が楽しめる花菖蒲園で通用する花でなければならない。そして、花菖蒲園で咲く花は鮮明で明るくあるべきだという信念を、平尾先生は持っておられた。「現存する花菖蒲はどれも欠点が目立ち駄目なものばかりだ。見るとうんざりする。私が全ての花菖蒲をすばらしいものに創り直したい。」と先生は語っておられたというが、このような理由があったからだと思う。 こうして鮮明な色彩を追求された先生のおかげと、その後の育種家の力もあり、花菖蒲は以前の肥後系全盛の頃よりはるかに鮮やかに、そして華やかになった。こんいちの花菖蒲園で咲きそろう花々に、平尾先生の思いは今も生き続けているのだと思う。 |